手術前の薬服用判断
手術日が近づくにつれ、多くの患者様は一つのジレンマに直面します。「普段服用している薬を飲み続けるべきか、それとも中止すべきか?」という点です。誤った薬を中止してしまうと、手術の進行に支障をきたしたり、最悪の場合は生命に関わる事態を招いたりする恐れがあります。一方で、適切に薬を中止することは、手術に伴うリスクを最小限に抑えることにつながります。そこで、皆様の参考となるよう、「術前の服薬中止チェックリスト」を以下にまとめました。 I. **必ず中止すべき薬:** **抗凝固薬(血液をサラサラにする薬):** アスピリン、ワルファリン、クロピドグレル、チカグレロルなどの薬は、通常、手術の5〜7日前から中止します。これらの薬は血栓(血の塊)の形成を防ぐ効果がある一方で、手術中の出血リスクを高める要因にもなります。薬の中止は必ず医師の指導のもとで行い、必要に応じて低分子ヘパリンなどの別の薬を用いた「ブリッジング療法(つなぎ療法)」が実施されます。リバーロキサバンやダビガトランといった新しい経口抗凝固薬については、一般的に手術の2〜4日前から中止となりますが、具体的な中止時期は患者様の腎機能に合わせて調整されます。 **特定の血糖降下薬(糖尿病治療薬):** 持効型インスリン(作用時間の長いインスリン)は、手術の1〜2日前から減量または中止し、速効型インスリンに切り替える必要があります。メトホルミンやグリベンクラミドなどのその他の血糖降下薬については、麻酔のために必要となる絶食期間中に低血糖を起こすのを防ぐため、手術当日の朝は服用を控える必要があります。 **特定の降圧薬(血圧を下げる薬):** ACE阻害薬やARB(例:カプトプリル、バルサルタンなど)は、麻酔中に治療困難な低血圧(難治性低血圧)が生じるのを防ぐため、通常、手術の24時間前から中止します。レセルピン配合剤(例:「北京降圧0号」など)については、手術の1〜2週間前から中止し、代替となる別の降圧薬に切り替える必要があります。 **その他:** 特定の抗血小板薬(例:チカグレロル、ジピリダモール)、特定の解熱鎮痛薬(例:イブプロフェン、ナプロキセン)に加え、高麗人参、魚油(フィッシュオイル)、イチョウ葉エキス、アリシン、ビタミンEなどの漢方薬やサプリメント類も、出血リスクを高める可能性があります。 II.服用を**絶対に中止してはならない**薬剤(離脱症候群の予防のため): 循環器系薬剤:これには、ベータ遮断薬(例:メトプロロール、ビソプロロール)、硝酸薬(例:ニトログリセリン)、および抗不整脈薬(例:アミオダロン、ジゴキシン)が含まれます。これらの薬剤を急に中止すると、不整脈、狭心症、心筋梗塞、さらには突然死を引き起こす恐れがあります。 スタチン(脂質低下薬):アトルバスタチンやロスバスタチンなどがこれにあたります。周術期(手術前後の期間)においてもこれらの薬剤の服用を継続することで、心血管系の保護効果が得られます。 特定の降圧薬、具体的にはカルシウム拮抗薬(例:ニフェジピン、アムロジピン)および利尿薬(ただし、血清カリウム値が正常範囲内である場合に限る)については、通常、服用を継続することが可能です。 その他の薬剤(甲状腺ホルモン製剤、ステロイド薬、抗てんかん薬、抗パーキンソン病薬、抗うつ薬、抗精神病薬、気管支拡張薬、胃酸分泌抑制薬、制吐薬など)についても、通常通り服用してください。手術当日の朝は、これらの薬剤を少量の温水(30mL未満)とともに服用しても差し支えありません。
# 術前服薬中止チェックリスト:エビデンスに基づく包括的ガイド
## I. 中止すべき薬剤(出血リスク・代謝リスク管理)
### 抗凝固薬・抗血小板薬
| 薬剤 | 推奨中止時期 | エビデンス・注意点 |
|------|-------------|-------------------|
| **ワルファリン** | 大手術:**5日前**に中止、INR正常化を確認[8] | 高リスク血栓症(機械弁、最近のCVA/VTE、CHA₂DS₂-VASc ≥7)は**ブリッジング療法**(治療用量LMWH/UFH)を考慮[8]。中等度リスク(CHA₂DS₂-VASc 5-6、3-12ヶ月以内のVTE/CVA)は個別判断。小手術(歯科・皮膚科・白内障)は継続可[8]。 |
| **DOACs**(リバーロキサバン、アピキサバン、エドキサバン、ダビガトラン) | **大手術:48時間前**に中止[8]。CrCl 30-50 mL/minの場合は**48時間前**[2]。小手術:CrCl >50で**24時間前**、CrCl 30-50で**48時間前**[2]。 | ルーチンのブリッジングは不要(半減期が短く予測可能なため)[8]。術後止血確認後6-8時間で再開可能[2]。高出血リスク手術後はLMWHを6-12時間後に投与[2]。 |
| **アスピリン(ASA)** | **大手術:7日前**に中止[8]。小手術(歯科・皮膚科・白内障)は継続可[8]。 | 非心臓手術における周術期低用量アスピリン継続は、術後MI/死亡を予防せず、大出血リスクを増加[7]。ただし**冠動脈ステント留置後**は別扱い(後述)。 |
| **クロピドグレル** | **5日前**に中止[2][7]。 | 冠動脈ステント留置後は、BMSで**6週間**、DESで**6ヶ月**の待機後、P2Y12阻害薬を一時中止[8]。CABG患者は周術期継続を検討[8]。 |
| **チカグレロル** | 少なくとも**5日前**に中止(ガイドライン上の標準的推奨)。 | ユーザー記載の「5-7日前」は妥当。 |
### 血糖降下薬
| 薬剤 | 推奨中止時期 | エビデンス・注意点 |
|------|-------------|-------------------|
| **メトホルミン** | **手術当日朝のみ中止**、通常食再開時に再開[9]。造影剤使用またはeGFR <60の場合は手術当日+48時間中止[9]。 | 従来の48時間前中止推奨は、周術期乳酸アシドーシスリスクが有意でないことが判明し、ガイドラインは緩和[9]。 |
| **SGLT2阻害薬**(ダパグリフロジン、エンパグリフロジン等) | **3日前**から中止(エルツグリフロジンは4日前)[5][9]。入院を要する手術・腸管前処置を要する処置は**3日間**(2日前+当日)中止[5]。日帰り処置(上部内視鏡等)は**当日のみ**中止[5]。 | **周術期DKA(正常血糖性ケトアシドーシス)予防**が目的。術前低エネルギー食開始前から中止が必要[3]。 |
| **SU薬・グリニド薬** | **手術当日朝のみ中止**[9]。 | 絶食中の低血糖予防。 |
| **GLP-1受容体作動薬** | **手術当日朝のみ中止**[9]。週1回製剤は**1週間前**中止を考慮(ASA代替アプローチ)[9]。 | 胃内容排出遅延による麻酔リスクに注意。週1回製剤は半減期が長いため、術前に麻酔科へ情報共有[5]。 |
| **DPP-4阻害薬** | 継続可、または当日朝中止(議論あり)[9]。 | 低血糖リスクが低いため、選択的患者では継続も許容。 |
| **チアゾリジン薬** | **手術当日朝のみ中止**[9]。 | 体液貯留リスクに注意。 |
| **α-グルコシダーゼ阻害薬** | **手術当日朝のみ中止**[9]。 | 絶食中の低血糖予防。 |
### 降圧薬
| 薬剤 | 推奨中止時期 | エビデンス・注意点 |
|------|-------------|-------------------|
| **ACE阻害薬・ARB** | **手術前日**に中止[7]。 | 麻酔導入時の**難治性低血圧(vasoplegic syndrome)** リスク低減が目的。 |
| **レセルピン配合剤** | **1-2週間前**に中止、代替降圧薬に切替。 | カテコラミン枯渇による麻酔中の血圧不安定性を回避。 |
### その他(出血リスク増加薬剤)
| 薬剤 | 推奨中止時期 | エビデンス・注意点 |
|------|-------------|-------------------|
| **NSAIDs**(イブプロフェン、ナプロキセン等) | 手術**5-7日前**に中止。 | 血小板機能阻害による出血リスク。 |
| **漢方薬・サプリメント**(高麗人参、魚油、イチョウ葉、アリシン、ビタミンE) | 手術**1週間前**に中止[7]。 | 出血リスク増加のエビデンスあり。 |
| **生物学的DMARDs** | **投与サイクル終了時**に中止[10]。トファシチニブは**少なくとも7日間**休薬[10]。 | 創傷治癒・感染リスク管理。創傷治癒良好かつ感染徴候なければ再開[10]。 |
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## II. 絶対に中止してはならない薬剤(離脱症候群・心血管イベント予防)
| 薬剤クラス | 具体例 | 継続の根拠 |
|-----------|--------|-----------|
| **β遮断薬** | メトプロロール、ビソプロロール、アテノロール | 急激な中止は**リバウンド性頻脈・高血圧・心筋虚血・不整脈・突然死**を誘発。周術期継続が標準。 |
| **硝酸薬** | ニトログリセリン、硝酸イソソルビド | 冠動脈疾患患者の虚血予防。 |
| **抗不整脈薬** | アミオダロン、ジゴキシン、フレカイニド | 不整脈再発・心不全増悪リスク。 |
| **スタチン** | アトルバスタチン、ロスバスタチン | 周術期継続で**心血管保護効果**(血管内皮機能改善、プラーク安定化)。 |
| **カルシウム拮抗薬** | ニフェジピン、アムロジピン | 通常継続可。 |
| **利尿薬** | フロセミド、スピロノラクトン | 血清K⁺正常範囲内であれば継続可。術中・術後の電解質モニタリング必須。 |
| **甲状腺ホルモン薬** | レボチロキシン | 甲状腺クリーゼ予防のため継続。 |
| **ステロイド薬** | プレドニゾロン、ヒドロコルチゾン | **ストレス用量(ステロイドカバー)** の必要性を評価。副腎不全予防。 |
| **抗てんかん薬** | バルプロ酸、レベチラセタム、フェニトイン | 発作再発予防。術中・術後の経口摂取不可時は静注製剤への切替を検討。 |
| **抗パーキンソン病薬** | レボドパ/カルビドパ | パーキンソン症状悪化・悪性症候群予防。 |
| **抗うつ薬・抗精神病薬** | SSRI、SNRI、オランザピン等 | 急激な中止は**離脱症候群・精神症状再燃**を誘発。MAO阻害薬は麻酔薬との相互作用に注意。 |
| **気管支拡張薬** | サルブタモール吸入、チオトロピウム | COPD・喘息患者の気道確保。 |
| **胃酸分泌抑制薬** | PPI(オメプラゾール等)、H2ブロッカー | ストレス潰瘍予防。 |
| **制吐薬** | メトクロプラミド、オンダンセトロン | 術後悪心嘔吐予防。 |
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## III. 周術期薬剤管理アルゴリズム
**以下のフローチャートは、抗凝固薬・抗血小板薬の周術期管理における臨床判断アルゴリズムを示しています:**

*Figure: 血栓塞栓症リスクと出血リスクのバランスに基づく、抗凝固薬・抗血小板薬の術前中止・ブリッジング・術後再開の意思決定アルゴリズム*
**以下のフローチャートは、アスピリン(ASA)およびDual Antiplatelet Therapy(DAPT)の周術期管理を示しています:**

*Figure: 手術の緊急度と出血リスクに基づく、ASAおよびDAPTの継続・中止判断フローチャート*
**以下のインフォグラフィックは、心胸部外科手術における周術期薬剤管理の多職種連携アプローチを示しています:**

*Figure: 術前・術中・術後を通じた、心胸部外科患者の周術期薬剤管理における多職種連携の全体像*
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## IV. 術前薬剤レビューの実践ポイント
1. **計画的レビュー**:待機的手術の**7-14日前**に、施設別チェックリストを用いた系統的薬剤レビューを実施[4]。
2. **リスク層別化**:血栓塞栓症リスク(高/中/低)× 出血リスク(手術侵襲度)のマトリックス評価。
3. **ブリッジング判断**:ワルファリン高リスク症例のみ治療用量LMWH/UFHでのブリッジング。DOACは原則不要[8]。
4. **術当日の服薬指示**:継続薬は**少量の水(30mL未満)** で服用可。中止薬は明確な指示書を患者に交付[5]。
5. **術後再開タイミング**:
- 抗凝固薬:止血確認後6-8時間(DOAC)〜6-12時間(LMWH)[2]
- 血糖降下薬:経口摂取再開時に再開
- 生物学的DMARDs:創傷治癒良好かつ感染徴候なければ再開[10]
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## V. ユーザー記載内容との整合性評価
| ユーザー記載 | エビデンス評価 | 補足 |
|-------------|--------------|------|
| アスピリン「5-7日前」中止 | ✅ 概ね妥当 | 大手術は**7日前**が標準[8]。小手術は継続可。 |
| ワルファリン「5-7日前」中止 | ✅ 妥当 | 5日前中止+INR正常化確認が標準[8]。 |
| DOAC「2-4日前」中止 | ✅ 概ね妥当 | 大手術**48時間前**、腎機能低下時は延長[2][8]。 |
| SGLT2阻害薬「手術当日朝のみ」中止 | ⚠️ **不十分** | 入院手術・腸管前処置を要する場合は**3日前**から中止が必要[5][9]。日帰り処置のみ当日中止で可。 |
| ACEi/ARB「24時間前」中止 | ✅ 妥当 | 手術前日中止が標準[7]。 |
| β遮断薬「継続」 | ✅ 妥当 | 急激な中止は心血管イベントリスク。 |
| スタチン「継続」 | ✅ 妥当 | 周術期心血管保護効果。 |
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**免責事項**:本チェックリストは、2026年5月時点のガイドライン・文献に基づく参考情報です。個々の患者の状態、手術侵襲度、併存疾患、腎機能・肝機能に応じた個別判断が必要です。実際の投与判断は、担当医・麻酔科医との協議のもと、最新の公式添付文書および施設プロトコルを確認の上で行ってください。